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文字が紡ぐ砂漠の世界 「敦煌」井上靖 [本]

砂漠の先に待っているものとは


敦煌 (新潮文庫)今日は夏休みの間に読んだ井上靖の長編「敦煌(とんこう)」を紹介します。井上靖の作品の中で「西域もの」と呼ばれるカテゴリーに入る本書は、その名の通り中国の西域、現代で言うところの新疆ウイグル自治区周辺が舞台です。どこまでも広がる砂漠とそこに生きる人たちの世界を描いた作品で、海外でも人気があり数か国語に翻訳されている大ベストセラーでもあります。使い古された言葉で恐縮ですが正統派の壮大な歴史ロマン小説です。では早速あらすじをどうぞ!!

主人公趙行徳は官吏登用試験に失敗し、その帰り道に道端で西夏の女性から西夏文字が書かれた布を貰う。その布に書かれている文字に心惹かれた行徳は、宋の首都開封から西夏を目指すことにする。しかし開封から西夏までの道のりは悠久に続く砂漠の世界を進む困難な旅。西へ向かう商隊と共に旅をするも不幸にも西夏軍に襲われ、西夏軍の漢人部隊に組み込まれしまう。西夏軍の漢人部隊を率いる生粋の武人・朱王礼と出会い、砂漠に吹き荒れる砂嵐の如く行徳の西への旅は大きく変わることに。行徳の西夏文字への熱意は形を変え、20世紀に奇跡を起こす一大発見へとつながることになる運命が彼を待っていることも知らずに。

井上靖の作品は以前「氷壁」をレビューしていますが、非常にニュートラルな文章で読みやすいです。過度な描写が無いのでそのまま場面や情景がストレートに読者に訴えてくるので、砂漠の過酷な砂嵐の荒々しさや戦場の激しさは、まるでその場にいるかのように感じる程です。さすがはノーベル賞候補にあがったことがある作家さんの筆力は違います。でもその分艶っぽさや色気が無いのがちょっと惜しいかな(失礼)。

西夏の文字の研究のはずが気が付いたら軍隊に入れられてしまった行徳は、文字が読めることで上官である朱王礼に重宝され、持前の優秀な頭脳を活かし参謀のようなポジションへと出世します。そして戦争の日々を駆け抜け、西域の主要都市であるウイグル族の街甘州を落とし、そこで一人城に残された美しいウイグル族王家の娘と出会いますが、予てよりの目的である西夏文字の研究の為、朱王礼の勧めもあり除隊し1年間だけという約束で西夏の首都興慶へと旅立ちます。

興慶で熱心に西夏文字の研究を進め、そこで仏教と出会いその教えに興味を持ち、僧侶と一緒になって仏典と経文研究を進めていきます。約束の1年が過ぎ、2年経って甘州に戻った行徳はウイグルの娘が西夏の皇太子に側室として召されてしまったこと、朱王礼が彼女を心から愛してしまったこと、そして側室として連行した皇太子を心底恨んでいることなど留守にしていた期間の出来事を知り時の残酷さを痛感します。そして軍の演習時に衝撃的な出来事を目にすることになり、朱王礼と行徳の人生が大きく軌道を変えていきます。

武人として、文人として、人として多くの人と出会い、別れを繰り返しながら命がけの日々を戦場で過ごした末、西夏軍の漢人部隊(外国人部隊)のトップとして常に最前線で戦う朱王礼がある日突如反旗を翻します。そして最後(最期)に行きつく先、全てを終わらせる地として選ばれたのが西域で最も華やかな街・沙州(敦煌)でした。朱王礼の反逆を見逃すはずがない西夏の皇太子は軍本隊を率いて沙州に雨の様に火矢を放ち、美しい砂漠のオアシスの街・沙州を焼き尽くしていきます。朱王礼は生涯愛したたった一人の女性であるウイグルの娘の恨みを晴らすため、最期は一人の男として皇太子を狙って本体に突撃していきます。そして行徳はそんな彼の姿を見て、戦場で戦わない自分が命をかけて守りたいもの、守れるものは何かを考えた時に「ある物」を思い出します。そして行徳は戦禍が迫る中、知恵をフル回転し強欲な旅の商隊のトップを上手く利用し、焼け落ちる沙州からそれらを運び出し沙州近くの千仏堂に隠します。

行徳が命をかけて千仏洞に運び隠した物は沙州(敦煌)が滅びた後に約850年の間眠りにつき、20世紀初頭にイギリスの探検隊によって発掘されます。そして趙行徳が命をかけて守ったそれらの物は、長く神秘のベールに包まれていた多くの謎を解き明かす歴史的な大発見として世界に広く伝えられます。行徳が最期に命をかけて守りたかったもの、燃え盛る炎から守った物は西夏文字の研究を志した行徳らしいものでした。

たった一人の愛した女の為に命をかける男。後世に伝えるべきは何かを思い、私物ではなく万民にとって貴重なものを守った男。王族の娘として、そして一人の女として矜持をもって命をかけた女。没落王家の末裔であることだけを心の支えとした哀れな商人。沙州を治める太守として沙州を守るために命をかけた男。どんな境遇になっても決してプライドを捨てずに生きる女。色々なタイプの人間が登場し、この小説を彩っていきます。もちろん史実をもとにしたフィクションですが、登場人物の中には実在の人物も多くいます。

最終的に朱王礼が人生をかけた大勝負に打って出るシーンを見ると、現在多くの国が抱えている異民族との共存という難しさを感じずにはいられません。日本は単一民族国家ですが(正確に言うとちょっと違いますが)、中国ではウイグル族をはじめとし多くの少数民族との間で民族問題を抱えているのは周知の事実です。そしてそれらは今始まった問題ではなく、ずっとそこにあるものであり、それからもあり続ける問題なんだと再認識しました。

趙行徳という主人公は、良い意味でも悪い意味でも非常に普通の人であり、何かの才能に恵まれているわけでもなければ、特別選ばれた人間ではありません。戦場では真っ先に気を失い、気が付いたら馬の背中に固定されていたおかげで生き延びてたという感じですし、常に悩みと苦しみを抱えながら、逆らうことが出来ない時代の流れの中で自分が出来る精一杯のことをするという非常に普通の人です(もちろん優秀&西夏行きを決めたことを除いてですが)。だからこそ行徳に読み手の心が引き込まれ、小説の世界にスッカリとはまってしまうのだと思います。ヒーローでもなんでもない自分と同じ一般人が必死に生きる姿を見ると応援したくなるのが人間心理であり、井上靖は見事にそこを突いたのだと思います。当初の予定では首都開封で役人として立身出世をする人生のはずが、気が付いたら過酷な砂漠の中で人生の大半を過ごすことになってしまうとは彼にとって完全に想定外だったはずです。でもそんな行徳が物語の後半に自分の人生を振りかえり、「自分が生まれ変わるとしても、もう一度同じ人生を歩むだろう」と思うシーンが非常に印象的でした。もう一度生まれ変わっても、同じ人生を歩みたいと思える人はそうは多くないですよね。

この「敦煌」という本は、読者を「敦煌」に行かせたくなる不思議な力をもった一流小説です。現在敦煌では映画で使用されたセットなどがそのまま保存されていて、非常に観光客に人気があるそうです。ですが作者の井上靖が敦煌に実際に訪れた時は廃墟に近い状態だったのではないかと思います。何が井上靖を敦煌に引き寄せたのでしょうか。それこそ仏教でいうところの因縁でしょうか。また彼の仏教や中国文化の知識と教養深さも素晴らしく、彼の英知を感じることが出来る名作として非常に素晴らしい作品です。中国ものがお好きな方で、少し毛色が変わったものをお探しの方には自信を持っておすすめしたいと思います。まさに、名作です。

敦煌 (新潮文庫)

敦煌 (新潮文庫)

  • 作者: 井上 靖
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1965/06/30
  • メディア: 文庫

 
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  • 発売日: 1965/06/30
  • メディア: Kindle版

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